KAMMENNYI TSVETOKー棗猫の標本箱

"KAMMENNYI TSVETOK(カーミニツヴィートク)"は鉱物蒐集に関する個人的な覚え書きのBlogですFC2より引っ越しました。 サイト名は真の美しさを求め石の花を追い求める石工を描いたロシアの作家パーヴェル・バショーフの小説集の題名「石の花」のロシア語表記から採りました。 *当サイトの管理人は著作権を放棄しておりません、文章及び画像の無断転載はご遠慮下さい。

エットレ・ソットサスの目がとらえた カルティエ宝飾デザイン

美が姿を現す時、ひとつの窓が開かれる。そこから美は、くっきりと輪郭を浮かび上がらせながら、静かな、何ともいえない光となって、遥か彼方から光り続ける。その光こそが、厳しくあいまいな真実を携えながらも、われわれの思考を加速させ、われわれに命を与え、そして歩み続けさせてくれる、ただ唯一の光なのである。ーエットレ・ソットサス

マエストロ・ソットサスは「文化の結晶」「神聖なもの」としての宝飾品を提示してみせてくれた。


京都醍醐寺の門を潜り霊宝堂の中に入ると、入り口のギャラリーに展示されている仏像に対峙する様に通路の壁にはカルティエの宝飾品を身に付けた王侯貴族や女優の写真に混じって、チベットやアフリカの装飾品を身に付けた人々の写真が展示されていた。

それはカルティエのデザインが様々な文化の要素を示すと同時に、宝飾が本来持つ個人を特化する力をも示している様にも思える。


ソットサスの展示は意外な程あっさりとしたものだった、漆黒の祭壇を思わせる飾り気の無い縦長の展示ブースは下に車輪が付き動かす事が出来る様になっている、余計な装飾も説明パネルさえも排除したシンプルな展示は見るものの眼を、ジュエリーにのみ集中させる事を意図しているのだろう。

ブースの脇にはそのジュエリーのデザイン画が巨大に引き延ばされた姿で電飾パネルとして展示されている、大きく引き延ばされたデザイン画はその絵が本来もっていた機能性から離れ、ひとつの絵画としてとして輝いているようだった。


この会場で素晴らしかったのは、醍醐寺の仏像と宝飾品が薄闇の中に対峙する瞬間だ。

何処か厨子を思わせる黒い展示ケースの中に、浮かび上がる宝石はかつてそれが身に付けられた位置にディスプレイされ、その宝石を身に付けた人の幻を浮かび上がらせているようだ。

絢爛たる宝石を身に付けた透明な人影が、静かな闇の中に佇む仏像にまっすぐに向かい合う、「西洋と東洋」「虚飾と虚無」など、この二つの象徴的なものから読み取るものは人に因って異なるだろう。

そしてその美しさが「見るものに畏敬の念を抱かせる」という意味で小さなジュエリーが仏像に決して引けを取らない存在感を持つ事をしめしてくれた。


薄暗闇の中順路を辿って行くと、カルティエが如何に多くの文化からそのモチーフを採っているか、デザインと機能を両立させるためどれだけの術を尽くして来たかが解る。

ヨーロッパの古典から、エジプトの装飾、中国の文様、北斎や若沖を思わせるモチーフまで、カルティエ風にアレンジされ貴重な宝石を使って表現されている(あの大阪名物ビリケンまでミステリークロックの上鎮座しているのだ)、そしてそれを身に付けた人々の個性や生前の嗜好、地位までもを想像させてくれる。

宝飾品に妥協の無い品質の素材と技術を注ぎ込み、小さな世界を作り上げたカルティエのデザイン力に改めて感服した。


ソットサスは展示するジュエリーを観客に驚きを与える様、計算して配置したと語ってるが、この迷路の様な展示を巡っていると、カルティエがそのジュエリーに込めた様々な文化の断片を拾い集めながらジュエリーを巡る「旅」をしてきたような不思議な感覚に襲われる。

その人の個性を表現するため特別な人々の為に作られた特別なジュエリーとソットサスの素晴らしい空間演出が,見事な調和を奏でる素晴らしく印象に残る展覧会だった。

われわれを救ってくれるものがあるとしたら、きっとそれは美にちがいない。ーエットレ・ソットサス

関連LINK

醍醐寺霊宝堂の特別展ページ

http://www.daigoji.or.jp/info/cartier/index.html